2日目は世界遺産のクルージャの町は灰色の瓦屋根で不思議な街並みへそしてアルバニアからマケドニアへ国境越えてオフリドまでいきます
朝食はビュッフエです、夜中にサンドイッチ完食したので皆さん軽めに
豆乳(参加者だけが知っている、笑)
広くて6名悠々です
1時間弱でクルージャへ到着、
キキョウの仲間
キクニガナの仲間
グルーニャ城の入口です
古いモスクの遺跡の跡
オールド モスク、スルタン メフメット ファティのモ
スク、そしてハマムは、オスマン帝国のクルヤ城侵攻
後、間違いなく守備隊のニーズに応えてきました。モ
スクとハマムは 1478 年から 1490 年 (1481 年にスル
タン メフメット ファティが死去した時期) 頃に建設さ
れたと推定されています。この名前は今でも地元の
人々によって守られています。モスクは、1831 年に
タンジマトゥムの蜂起中にオスマン帝国軍が城壁を散
らしたときに被害を受けました。 1837 年から 1838
年にかけて再建されました。モスクとミナレットは、
融合することなく構造的に結合されています。と考え
られています
国立博物館「ジェルジ‧カストリオティ‧スカンデルベグ」は、1982 年 11 月 1 日 にクルヤ城の入口左側に建てられました。博物館の建築家はプランベラ‧ホッジャ とピロ‧ヴァソです。博物館がクルヤに建てられたのは、ここがクルヤ城の中心
だったからです。 15 世紀にオスマン帝国に対するアルバニア人の抵抗があり、その名はヨーロッパ全土に知られるようになりました。3 回の包囲戦 (1450、1466、1467 年) は失敗し、オスマン帝国がこの城を征服したのは 1478 年になってからで した。この建物は記念碑として建てられました。外観の建築上の選択は、主な大広間を備えた水平部分と北アルバニアの塔に似た垂直部分の 2 つの主要な部分で区別 され、内部は空間が途切れることなく連続して結合されるように配置され、歴史が 表現されています。この美術館では、歴史、建築、芸術がひとつに結びついていま す。重い柱や石のアーチなどの歴史的な建築要素が使用されています。美術作品、 石や木の彫刻、錬鉄、地図、グラフィック、ガラス絵などは、歴史的な付属品とし ての価値があります。材料。博物館に入ると、人々の真ん中にジェルジ‧カストリ オティを表現した彫刻群があります。戦士には名前がありませんが、彼らの衣服と 頭飾りは、すべての地域がこの戦争に参加していることを示しています。
戦争 女性の図は、戦いへの参加を示しています。
王様の椅子に、大きいです
隣国がいっぱい、だから日本では考えられないことが起こるのですね
アラバスターには、中世の主要な要塞、ロドーニ ベラティ、ペトレラのい くつかが示されており、地図上のクルヤの要塞は、要塞のより広範囲の分 布を示しており、側面の彫刻は、戦われた戦いの瞬間を示しています。この彫刻には、第一次クルヤ包囲戦 (1450 年) が描かれていま
右側には、スカンデルベグに関する外国人作家の絵画が展 示されていました。向かいには国⺠ルネッサンスの絵画(アルバニア人作 家、19世紀末)が飾られています。左側には、スカンデルベグの 500 周 年を記念したアルバニア人作家の絵が飾られています(1968 年)
ENDURANCE NAXHI BAKALI 1982、アクリル 1780 X 500 CM
壁画「耐久」はホール「統一と耐久」の中央に位置し、スカンデルベグ の兜と剣が露出するアーチ状の正面壁全面に広がっています(レプリ カ)。現在武器(兜と剣)が展示されています。これらはノイエブルク (ウィーン美術史美術館付属)の武器と甲冑のコレクションに展示され ています。この絵はアクリル絵の具の技法で実現され、アーティストの ナシ‧バカリはアルバニアの歴史家、史料、その他の出版物と相談して
制作されました。アルバニア人と外国の作家 この記念碑的な風景を通し て、芸術家は、1450年、1466年、1467年にクルヤを包囲したオスマン 帝国軍とスルタンに対する25年間に起こった戦いにおけるスカンデルベ グの抵抗と勝利を一般化しました。この博物館の最大の展示は 11 か月 間続き、博物館の開館のわずか数日前に終了しました。
アラバスターには、中世の主要な要塞、ロドーニ ベラティ、ペトレラのい くつかが示されており、地図上のクルヤの要塞は、要塞のより広範囲の分 布を示しており、側面の彫刻は、戦われた戦いの瞬間を示しています。ガ
ラスの彫刻には、第一次クルヤ包囲戦 (1450 年) が描かれていま
スンデルベウは、人⺠解放蜂起の⻩金の才能の主催者として、勝利100周年の戦略的軍事高官として、自国の最大の自由の旗手
として、アルバニアとヨーロッパの間の歴史に名を刻んだ。前者の耳鼻咽喉科鍛造者米国は、
バルカン半島の抑圧された人々の解放の船⻑としてのアルバニア人を、ヨーロッパ大陸における我が国⺠の鋼鉄の盾として。
ひやあ、クルージャの街並み
座布団の上は靴OKということでした
ドリアンガイド フルーツと同じなので覚えやすい
ウスベニアオイ
なんだろう
ブドウはいたるところに
ボタンヅル
キョウチクトウ8いつも若い頃に読んだ【夾竹桃の花咲けば】思い出します
ジェルジ‧カストリオティ‧スケンデルベウがド ニカ‧カストリオティとの結婚式の日に植えたと考えられています。これにより、すべての若いカップル が結婚生活の平和と調和のしるしとしてオリーブの木を植えるべきであるという、何世紀にもわたって保 存される伝統が生まれました。その王冠の下には、ドルマ寺院に仕えたババと僧侶の墓があります。
トルコ式お風呂、有名なので中みたかったけれど今回どこかでみられますよ
暑いから日陰でね
結局みんなではりついて
オロジナル機織りさん、
お土産やが並ぶバザールで1時間フリータイム
ついてきてくれると言ったのですが暑いしもうよいですよ、ドリアンガイドありがとー
てぬぐいや日本の巾着袋、センスなどあげました、皆さんご協力ありがとうございました!
Whats Appつながりました
涼しいパノラマホテルでランチタイム、アルバニアの地ビール
前菜 いやあ多い
チーズ、ヨーグルト、パイ生地の包み焼き、ミートボールのラザニア、ポークなど
ペロドライバーさんもこれから先ずっと一緒です
ひやあ、焼き鳥もポテトもあった
タヴチェ・グラヴチェ
北マケドニアの郷土料理であるタヴチェ・グラヴチェ。いんげん豆や白花豆などの「白豆」やたまねぎとともに、パプリカ粉やクミン、唐辛子といった調味料を加えて煮込む料理です。豆がたっぷり入っているため栄養満点です。見た目とは相反して、お腹いっぱいにもなります。北マケドニアでは、およそ450円程度で食べることができます。
フルールとデザートのライスの黒砂糖混ぜ
パノラマホテルでのランチでした
今夜、雷なるかな、渋滞に巻き込まれましたし国境も混んで待たされましたが
どうにかシャワーは浴びられたそうです、ホテルでの夕食は助かります
今夜のホテルはミレニアムプレイス スタッフには親切にして頂きました
このほか、今回は全てのホテルにプールやジム、ホットスパ、サウナがありますので水着の
ご案内もしました
毎日ホテルでの夕食
涼しくなりお散歩にいってみましたが夕陽が綺麗でした
チーズがたくさんのっているのでドレッシング不要です
まずはローカルビールから
とてもよくして頂いたハンサムガイ、フロントの女の子やこのスタッフにも日本手差し上げました
またまた乾杯、今度はボトルでとった赤ワインで乾杯、ピーターは明日のことを考えてワインはパス
北マケドニア産、香りがすごく良かったそうですよ
ポテト美味しい、ランチみたいにすごい良じゃなくて良かった、ケーキはペロと明日の打ち合わせしていて写真撮るのを
忘れました、今回は皆さん写真撮らないので忘れないようにしなくちゃね、
ペロドライバーさん、ポテトの皮が嫌だと一生懸命むく姿には大笑いしてしまいましたよ
オフリドのホテル ミレニアム パレス(HOTEL MILLENIUM PALACE)
ドリアンガイド ペロドライバーさんお世話になりました!
マケドニアは
人口は約210万で、約60%をスラブが占めています。その他、特にコソボ紛争の際、大量流入したアルバニア人が23%を占め、現在でもそのアルバニア人の力は強く不安定要素となっている。その他トルコ人、セルビア人、ロマ人(ジプシー)、ワラキア人等の少数民族(それぞれ%前後)がいる。首都スコピエの人口は約50万人。
マケドニア語が公用語。自治体によってはアルバニア語、トルコ語、ロマ語、ルーマニア語、セルビア語がマケドニア語とともに公用語に指定されている。外国語では、英語、ドイツ語、イタリア語、ギリシャ語などが通じるようである。これだけ聞いても多民族、多国籍ですねえ、
宗教構成は、マケドニア正教が約67%、ムスリム30%、その他3%となっている。マケドニアはヨーロッパの中で5番目にイスラム教徒が多い国です(1位:トルコ、2位:コソボ、3位:アルバニア、4位:ボスニア・ヘルツェゴビナ)。ムスリムのほとんどがアルバニア人、トルコ人、ロマ人で、マケドニア人はごく少数なのですね。
地理・気候
マケドニアはバルカン半島の西部に位置し、周囲をブルガリア、アルバニア、セルビア、コソボ、ギリシャで囲まれる内陸国で山、谷や湖水等により観光資源が豊富。
内陸部大陸性気候で夏は暑く乾燥し、冬は穏やかでほとんど雪は降らない。
1991年旧ユーゴからの独立以来、二大政党(VMRO-DPMNE党,社会民主同盟)のいずれかが、小政党(アルバニア系等)との連立政権を築いてきた。2001年の国内のマケドニア系勢力とアルバニア系勢力との衝突後、民族融和に関するオフリド枠組み合意に基づき、多民族国家として平和裏の国家再建を継続していると評価されている一方、汚職対策・司法改革の遅れ、国内政治対話の停滞、メディアの自由の制限に引き続き取り組む必要があるとも指摘されている。
1991年の独立時に憲法で制定した国名は「マケドニア共和国」。これに対しギリシャが、「マケドニア」はギリシャ古来の由緒ある名であること、同名称の使用はギリシャ北部のマケドニア地方に対する領土要求の野心を示すものとして、その使用に反対していた。その後2018年6月にギリシャとの間で国名を「北マケドニア共和国」とする合意(プレスパ合意)が結ばれ、2019年1月に北マケドニア議会で憲法改正案が承認された。
マケドニアの伝統的産業は農業(特に、たばこ、野菜、果物、ワイン、ジュース、食肉等)で、旧ユーゴ時代は経済的に遅れた地域であった一方、同時代、鉱業(クロム、銅、亜鉛、鉄)、鉄鋼、非鉄工業(銅線、ケーブル)、軽工業(繊維製品、被服)、組み立て産業(自動車部品等)等の分野で工業化が進められた。
主体である農牧業では、小麦、大麦、トウモロコシ、ブドウが栽培され、ワイン、チーズが製造されている。石炭、クロム、スズなどの鉱産があり、鉄鋼、繊維などの工業もある。ユーゴ内戦中は新ユーゴへの経済制裁がおこなわれていたため、唯一の市場であるセルビアへ農産物を輸出することができず、大きな痛手を受けた。またコソボ紛争でも難民が流入し財政を圧迫した。内陸国で輸送手段が乏しいことも、産業の発展を阻害している。
近年、税制優遇措置、民営化及び事業環境の改善を通して国内産業の活性化や海外直接投資(FDI)の誘致にも取り組んでいる。欧州債務危機により輸出及びFDIが減少し打撃は受けたものの、財政緊縮や世銀の融資等により乗り切り、経済全体は回復傾向にある。ただ、個人消費の冷え込み及び輸出の停滞が引き続き経済成長の障壁となることが予想されると共に、30%を超える失業率に対応する雇用創出も喫緊の課題となっている。